お聖教のことば
1. 人間(1)
人間ほど浅薄(あさはか)なものはない。いずれも急がなくても良いことを急ぎ、争わなくてもよいことを争っている。このはげしい悪と苦の渦の中に、あくせくとして勤めはたらき、それによってやっと生計を保っているのである。(仏説無量寿経 『註釈版』P.54-4)
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1. 人間(2)
田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、あればあるにつけて憂いはつきない。……
また、田がなければ田をほしいと悩み、家がなければ家をほしいと悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、ねければないにつけて、またそれらをほしいと思い悩む。たまたま、ひとつが得られると他のひとつが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりは、すべてを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみなそろったと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう。(仏説無量寿経 『註釈版』P.54-9)
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1. 人間(3)
人は、この世の愛欲のきずなにつながれて生きているが、つきつめてみると、独り生まれ、独り死に、独り来て、独りゆくのである。すなわち、人それぞれの行いによって苦楽の境界にすむ身になるのであって、すべては自分自身がその責任を負わねばならない。だれも、これに代わることはできないのである。(仏説無量寿経 『註釈版』P.56-3)
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1. 人間(4)
どうして人びとは、世間の雑事をふりすてて、各自が健やかな間に、つとめて善を励み、ひとえに浄土に往生することを願わないのであろうか。そうすれば、とこしえにつきないいのちが恵まれるであろうに。なぜ、道を求めないのだろうか。なにを期待して生きているのだろうか。いったい、どういう楽しみを欲しているのであろうか。(仏説無量寿経 『註釈版』P.56-9)
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1. 人間(5)
人間は、心愚かにかたくなで、正しい教えを信じようとしない。したがって将来を思いはからず、われがちに目前の歓楽のみを追っている。愛欲にまどい、道徳をわきまえず、怒りにくるい、財と色とをむさぼることは、まるで狼のようである。そのために、道が得られず、ふたたび悪道に沈んで苦しみ、いつまでも生死流転はつきない。なんという哀れな痛ましいことであろうか。(仏説無量寿経 『註釈版』P.57-9)
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1. 人間(6)
愛するものもいつかは別れ、栄えるものもやがてはほろびる。真に楽しむべきものは、なにひとつもない。(仏説無量寿経 『註釈版』P.58-14)
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1. 人間(7)
強気ものは弱気ものを打ちたおし、えものを争って殺しあい、たがいに骨肉をかみ食らう。善の道を修めることなど知らず、無惨な殺生をおかして、その結果、おそるべきわざわいときびしい罰を受けるのである。自業自得の道理は必然であって、まぬがれることはできない。(仏説無量寿経 『註釈版』P.62-11)
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1. 人間(8)
人間はいそがしく、さまざまな務めにかかわって、いのちの日夜に去ることを知らない。あたかも風のなかのともしびが、いつ消えるともわからないようなものである。あわただしく六道を経めぐって、おちつくところがない。(善導大師 往生礼讃 『註釈版七祖篇』P.669-2)
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1. 人間(9)
凡夫とは、われわれ人間のことであるが、まことの智慧がなく、煩悩がその身にみちみちて、欲は多く、怒り・うらやみ・ねたむ心もやむことなく湧いて、いのちの終わるときまで、とどまらず・消えず・たえぬのであると善導大師は水火二河のたとえに教えられている。(親鸞聖人 一念多念証文 『註釈版』P.693-5)
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2. 聞法(1)
真実の教えは、仏説無量寿経である。この経の大意は、阿弥陀如来がすぐれた誓いをおこして、ひろく一切衆生のために法門の蔵をひらき、愚かな凡夫をあわれんで、功徳の宝である南無だ弥陀仏の名号を選んで施された。釈尊は、この世にお出ましになって種々の教法をお説きになり、とくに本願の名号という真実の利益をすべての衆生に恵もうとおぼしめされたのである。それゆえに、阿弥陀如来の本願を説くことをこの経の要(かなめ)とし、仏の名号を経の本質とするのである。(親鸞聖人 教行信証 『註釈版』P.135-5)
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2. 聞法(2)
たとい三千大千世界に大火が満ちみちるようなことがあっても、かならずそれを踏み越えてこの教えを求め聞き、よろこび信じ、身につけて、教えのごとく行ずべきである。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことのできぬ尊い教えだからである。もし人びとの中で、この教えを聞いて進むものがあれば、無上のさとりをひらくまで、けっして退くことがないであろう。(仏説無量寿経 『註釈版』P.81-7)
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2. 聞法(3)
およそ人と生まれることはかたく、仏の世にあることもまたむずかしい。ましてや信心の智慧を得るのはさらに難しい。もし法を聞けば、つとめて道を求めるがよい。聞き得たところをよく心にとどめ、仏を仰いで信じよろこぶものこそ、われの善き親友である。(仏説無量寿経 『註釈版』P.47-10)
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2. 聞法(4)
仏法は、いそがしい世間の仕事をさしおいて聞かねばならぬ。それなのに、あなたは、ひまができたら聞こうと思ってはいないか。それはあさはかなことである。仏法のうえからいえば、老少不定の身であるから、明日があると思ってはならない。(蓮如上人御一代記聞書 『註釈版』P.1280-4)
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2. 聞法(5)
「かたいものは石である。やわらかいものは水である。その水が石に穴をあける。そのように、心をひとすじにつらぬけば、さとりの道も成就しないはずがない」という古人のことばもある。いまはどんなに不信の人であっても、心をこめて仏法を聞いてやまないならば、如来のお慈悲のはたらきで、かならず信心が決定するであろう。ただ仏法は、心をこめて聴聞するにかぎる。(蓮如上人御一代記聞書)
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2. 聞法(6)
「仏法は、若いときに心がけて聞け」と、ある信心のあつい人がいわれた。年をとると、歩行は不自由になるし、ねむたくもなる。だから、ぜひ若いときに心がけて聞かねばならない。(蓮如上人御一代記聞書 『註釈版』P.1252-6)
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2. 聞法(7)
仏説無量寿経に「聞」と説かれてあるのは、われわれ衆生が、本願の起こされたわけとその衆生をすくうはたらきを聞きひらけば、疑いのこころがなくなる。それを「聞」というのである。(親鸞聖人 教行信証 『註釈版』P.251-5)
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2. 聞法(8)
仏説無量寿経に「その名号を聞く」とあるのは、本願に誓われた南無阿弥陀仏のいわれを聞くことだと、仰せられたのである。「聞く」ということは、本願を聞いて疑う心のないことをいうのである。また、「聞く」ということの意味は、そのまま、信心をあらわすことばとなるのである。(親鸞聖人 一念多念証文 『註釈版』P.678-2)
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2. 聞法(9)
もし、わたくしが仏となったとき、あらゆる人びとが、仏のまことをいただいて信じよろこび、わが浄土に生まれることに安らぎを得、念仏して、生まれることができないならば、わたくしは決してさとりを開かない。ただ、五逆の罪を犯すものと、正法をそしるものだけは除かれる。(仏説無量寿経 『註釈版』P.18-6)
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2. 聞法(10)
あらゆる人びとは、南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じよろこぶならば、その信心は、如来から与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに、往生が定まる身となり、不退の位に入るのである。ただ、五逆の罪を犯すものと、正法をそしるものだけは除かれる。(仏説無量寿経 『註釈版』P.41-6)
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3. 信心・念仏(1)
「ただ、五逆の罪を犯すものと、正法をそしるものだけは除かれる」という第十八願のおことばは、五逆の罪人をきらい、正しい教えをそしる罪の重さを知らせたいとのお心なのである。このふたつの罪の重いことを示して、しかも、十方世界の生きとし生ける人びとがすべてもれなくすくわれることを、知らせようとされたのである。(親鸞聖人 尊号真像銘文 『註釈版』P.644-12)
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3. 信心・念仏(2)
ああ、この力強い本願は、生々世々にもあいがたく、他力の信心は永劫にも獲がたい。いまさいわいにして、この獲がたい信心を獲たならば、遠く過去の世からのお育ての因縁をよろこべ、もしまた、このたび疑いの闇に閉ざされて、如来の本願をいただけなかったら、またもとのごとく、永遠の迷いを続けなければならないであろう。ああ、まことなるは、摂取して捨てぬという如来の真実のおことば、世にたぐいまれな正法である。よくよく聞かせていただき深く心に銘じて疑いをさしはさんではならない。(親鸞聖人 教行信証 『註釈版』P.131-12)
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3. 信心・念仏(3)
親鸞においては「ただ念仏して阿弥陀如来にたすけていただきなさい」といわれた、よき師法然上人のおことばを聞いて、そのまま信ずるほか別にむずかしいわけはない。念仏は、ほんとうに浄土に生まれる因(たね)であるのか、また地獄におちる業(ごう)であるのか、そういうことはまったく知らない。たとい法然上人にだまされて地獄におちたとしても、けっして後悔はしないわたくしである。なぜならば、ほかの修行を励んでいればすくわれるはずの身が念仏して地獄へおちたのであれば、「だまされた」という後悔もあろうが、どんな修行も徹底できない親鸞であるのだから、どうしたところで地獄こそわが住家(すみか)ときまっているのである。(歎異抄 『註釈版』P.832-10)
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3. 信心・念仏(4)
善人でもすくわれて往生する。ましてや悪人のすくわれないことがあろうか。ところが世間の人びとは「悪人でもすくわれるのであるから善人ならばなおさらだ」という。この考えはいちおうもっとものようであるが、本願他力のお心にはそわないのである。そのわけは、自力の善を積んでさとりをひらこうと思っている善人は、他力におまかせする心が欠けているのだから、如来の本願のお心にそむいている。しかしこのような善人でも、自力のはからいを捨てて如来の本願におもかせすれば、真実の浄土に往生するのである。なしをしても迷いをはなれることのできない煩悩そのもののわたくしたちをあわれんで、本願を起こしてくださった如来の真意は悪人成仏のためであるから、その他力をたのむ悪人こそまさにおすくいのめあてである。だから善人でもすくわれて往生する。まして悪人はなおさらのことである。(歎異抄 『註釈版』P.833-10)
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3. 信心・念仏(5)
信心をえるとは、すこしもむずかしいことではない。自力のはからいをたのむなどのまちがった心をいっさいすてて、ただ一心にふかく阿弥陀如来の本願におまかせして疑わないのを、真実の信心というのである。(蓮如上人 御文章 『註釈版』P.1202-10)
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3. 信心・念仏(6)
「深心」とは、深く信ずる心である。この深心にまた二種がある。一つには「自身はいま現に罪ふかい迷いの凡夫であり、はかり知れぬ遠い過去から、つねに苦悩に沈んで流転をかさね、未来永劫、迷いをはなれる手がかりがない」と、たしかに深く信ずることである。二つには、「阿弥陀如来の四十八願は、われわれ衆生を摂めとっておすくいくださるのであるから、疑いなくためらうことなくその本願力におまかせすれば、まちがいなく往生する」と、たしかに深く信ずることである。(善導大師 散善義 『註釈版七祖篇』P.457-3)
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3. 信心・念仏(7)
まことの信心をいただいた人は、「摂取して捨てぬ」という本願の誓いにすくわれるのであるから、正定聚という位に安住するのである。ゆえに、臨終にははじめて往生が定まるのではなく、また仏の来迎をまってすくわれるのでもない。信心がさだまるとき、往生もまたさだまるのである。(親鸞聖人 御消息 『註釈版』P.735-5)
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3. 信心・念仏(8)
真実の仏と浄土とはなにか、仏はその光明のはたらきが、心もことばも及ばぬ不可思議光如来である。浄土はまた、はかりなき光明の世界、無量光明土である。それは、衆生をすくいたもう大悲の誓願に報われて成就されたものであるから、真の報仏土というのである。(親鸞聖人 教行信証 『註釈版』P.337-3)
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3. 信心・念仏(9)
還相とは、衆生が浄土に生まれたのち、自利の智慧と利他の慈悲とを成就することができ、ふたたび迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導いて、ともどもに仏道に向かわせることである。この、浄土への往相といい、浄土からの還相といい、いずれも衆生の苦しみをのぞいて、生死の世界を離れさせるための、阿弥陀如来のおはからいである。(親鸞聖人 教行信証 論註の文 『註釈版』P.242-8)
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3. 信心・念仏(10)
信心があっても、念仏をとなえないのは、いかにも所詮がない。また、他に心を向けず一心に念仏をとなえても、信心が浅くては往生はできないのである。(親鸞聖人 御消息 『註釈版』P.785-4)
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3. 信心・念仏(11)
信心をえたうえは、尊く思ってとなえる念仏も、また、ふととなえる念仏も、みな仏恩報謝になる。他宗では、親や先祖へ功徳を回向するため、あるいは現世の幸福を祈るために念仏をとなえるのであるが、親鸞聖人のみ教えでは、わたくし自身が阿弥陀如来を信じてすくわれるのが念仏なのである。そのうえは称名は、いかなる場合でも、仏恩報謝よりほかはない。(蓮如上人御一代記聞書 『註釈版』P.1287-4)
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3. 信心・念仏(12)
「憶念称名いさみありて」とあるのは、称名はいさみの念仏であるという意味である。他力の信心を得たうえからは、うれしく、いさんでとなえる念仏である。(蓮如上人御一代記聞書 『註釈版』P.1249-6)
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3. 信心・念仏(13)
「わたくしは、口に念仏を申しておりますものの、心にとびたつほどのよろこびがなかなかおこりません。また、いそいで浄土にまいりたいと思う心もおこりませんが、どうしたことでしょうか」とお尋ね申しあげたところ、「親鸞もそれと同じ不審をもっていたが、唯円房そたなも同じ思いであったか。よくよく考えてみると、天にもおどり地にもおどるほどによろこばねばならぬはずであるが、それがなかなかよろこばれないのである。しかしそれでこそ、いよいよ浄土にまいらせていただくことに、まちがいないと思うがよい。よろこばねばならぬ心をおさえて、よろこばせないのは、煩悩のしわざである。ところが阿弥陀如来はかねてよりそれを見ぬかれて、わたくしたちを、煩悩具足の凡夫よ、と仰せられたのであるから、大悲の本願は、このようなあさましいわたくしたちのためであったと知られて、いよいよたのもしく思われるのである。いそいで浄土へまいりたくない心もなく、すこし病気にでもなれば死ぬのではなかろうかと心ぼそく感ずることも煩悩のしわざである。久遠のいにしえより流転をかさねてきた苦悩のふる里は捨てがたく、まだ見ぬ安養の浄土は恋しくない。よくよく煩悩のはげしいことである。なごりおしくはあってもこの世の縁がつきて力なく生涯をおわるときにかの浄土に往生するのである。いそいでいりたい心のない凡夫を、如来はことのあわれみたもうのである。だから、いよいよ大悲の誓願はたのもしく往生はまちがいないと思いなさい。おどりあがるほどによろこぶ心もあって、いそいで浄土へまいりたいということであれば、この人は、煩悩がないのではないかとあやしく思われるではないか」と、お答えになりました。(歎異抄 『註釈版』P.836-8)
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3. 信心・念仏(14)
念仏は、なにものにもさまたげられない絶対自由の道である。そのわけは、信心をいただいて念仏するものは、天地の神々にもうやまわれ、悪魔や外道もこれをさまたげることができない。また、いかなる罪悪も、その報いをうけることはないし、どんな善根もこれにはおよばないからである。(歎異抄 『註釈版』P.836-1)
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3. 信心・念仏(15)
在家の信者で、この念仏三昧を聞いて行じようと思うものは、みずから仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依せよ。そうして、外道の教えにしたがってはならぬ。諸天を拝んではならない。鬼神を祠(まつ)ってはならない。日のよしあしを視(み)てはならない。(親鸞聖人 教行信証 般舟三昧経の文 『註釈版』P.429-5)
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3. 信心・念仏(16)
清浄の信を得たものは、生涯ほかの教えの諸神を信じてはならない。……また、人びとは、悪魔や外道あるいは妖術師を信じて、道理に合わない禍福の邪説にまよい、不安、恐怖を生ずるのである。心自体が正しくないから、物ごとを占い問うてはわざわいをまねき、ついには人のいのちを害するにいたる。あるいは神明に祈願し、妖怪を呼んでは福を求め、長寿息災を祈って、しかもこれを得ることができない。愚かにも迷って邪説を信じ、まちがった見解を持ち、ついには非業の最後をとげて地獄に入り、出るときがないのである。(親鸞聖人 教行信証 本願薬師経の文 『註釈版』P.454-4)
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3. 信心・念仏(17)
金剛の信を得た人は、本願力によって、まよいの世界をただちに超え、この世の生活のうえにかならず十種の利益を得るのである。その現生(げんしょう)十種の利益とは、
一つには、目にみえぬ方々から護られる。
二つには、この上もなく尊い功徳が身にそなわる。
三つには、罪悪を転じて念仏の善と一味になる。
四つには、諸仏に護られる。
五つには、諸仏にほめたたえられる。
六つには、阿弥陀如来の光明につつまれて、つねに護られる。
七つには、心が真のよろこびに満たされる。
八つには、如来の恩を知らされ報謝の生活をする。
九つには、如来の大悲を人に伝えることができる。
十には、やがて仏となると定まった正定聚の位に入る。 (親鸞聖人 教行信証 『註釈版』P.251-10)
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3. 信心・念仏(18)
よろこばしいことには、心を広大な誓願の大地に樹(た)て、思いをはかり知れぬ本願の海に通わせている。深く如来のお慈悲を知り、しみじみと師のご恩の厚いことが仰がれる。そうして、よろこびはいよいよ高まり、感謝の思いはますます深い。(親鸞聖人 教行信証 『註釈版』P.473-10)
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4. 同朋(1)
かの安楽浄土には、すべて阿弥陀如来のきよらかなさとりの華から生まれでないものはない。同じく念仏によって往生するのであって、別の道がないからである。そこで、遠いかなたのあらゆる世界に通じて、念仏するものはみなきょうだいといえるのである。(曇鸞大師 往生論註 『註釈版』P.120-8)
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4. 同朋(2)
この信心の人を、釈迦如来は「わが親しい友である」とおよろこびになり、また「真(まこと)の仏弟子」と仰せられた。この人は「正しい念(おも)いに安住する人」である。この信心の人を、阿弥陀如来は摂取してお捨てにならないから、そのゆるがぬ堅固な心をさして「金剛心をえた人」というのである。(親鸞聖人 御消息 『註釈版』P.748-5)
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4. 同朋(3)
親鸞は、弟子と名づけるものは一人ももっていない。そのわけは、親鸞のはからいによって、その人に念仏させるようにしたのであれば、それこそ自分の弟子であるといってもよかろうが、ただ阿弥陀如来のおはからいによって念仏している人をさして、自分の弟子であるなどということは、実にもっておこがましいことだからである。(歎異抄 『註釈版』P.835-6)
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4. 同朋(4)
煩悩に満ちた身であるからといって、「欲望と衝動」にまかせて、身にもしてはならぬことを行い、口にもいってはならぬことをいい、心にも思ってはならぬことを思いながら、いかにも心のままにまかせていてよいのだ、といっている人があるが、まことにいたらぬ考え方である。これは、酔いがさめていないのにさらに酒をすすめ、毒も消えていないのにさらに毒をするめるようなものである。どんなによい薬があるからといって、毒を好んで飲めというようなことは、あってはならない。(親鸞聖人 御消息 『註釈版』P.739-8)
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4. 同朋(5)
ひごろ念仏して往生を願うしるしには、これまでの悪い心をひるがえして、友・同朋にもまごころをもって親しみあってこそ、この濁った世を厭うしるしであろうと思う。よくよくこのことを、心得られるがよい。(親鸞聖人 御消息 『註釈版』P.742-8)
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4. 同朋(6)
わが身の悪いことが知られるにつけても、「このようなものをおすくいくださるお慈悲よ」と、いよいよ本願を仰ぐようになれば、その願力自然(じねん)のはたらきによって、おのずから柔和になり、耐え忍ぶ心も湧いてくるのである。(歎異抄 『註釈版』P.849-5)
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4. 同朋(7)
他人の悪いことはよく見えるが、自分の悪いことはわからないものである。そこで、自分でわかるほどの悪いことであれば、それはよくよく悪いからこそ、自分にさえ知れるのだと思って、心を改めねばならない。(蓮如上人御一代聞書 『註釈版』P.1293-2)
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4. 同朋(8)
仏法者がすこしでもあやまちをおかすのをみたら、「あの仏法者さえ、あやまつことがあるのだから」と思い、わが身をふかくつつしまねばならない。それであるのに、「あの仏法者さえ、あのようにまちがうのだから、まして自分らがまちがうのは、あたりまえだ」と思うのは、まことにあさましいことである。(蓮如上人御一代記聞書 『註釈版』P.1304-6)
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4. 同朋(9)
わが身の往生が定まった人は、仏のご恩を思うにつけても、報恩のために心からお念仏を申して、世の中がほんとうに平和になるように、また、仏法がひろまるようにと、念ずべきである。(親鸞聖人 御消息 『註釈版』P.784-5)
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4. 同朋(10)
仏の教化のおよぶところ、国も郡も町も村も、その教えのめぐみを被らぬところはない。そのため、世の中はなごやかに治まり、日月は清らかに照り、風雨はほどよく時を得、もろもろの災いさらにおこらず、国は富み、民は安らかに、軍隊や兵器もまったく用がなくなる。また、人びとは徳をあがめ、いつくしみをおこし、つとめて礼儀を重んじ、たがいに譲りあうのである。(仏説無量寿経 『註釈版』P.73-11)
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